藤本 たけるの
「俳句、そぞろ歩き」
(104) 風蘭
雨のあとに、風蘭の白い花がよろこびの歌を唄っているかのように咲いている。僕とちがって暑さや雨が嫌いじゃないのだろう。しずくも美しい。
ご近所の床屋の先代が野生蘭の愛好家で、箕面の山の秘密の場所で採集していたのだそうだ。風蘭は樹の上に生えて風を好んで繁茂する。そこから名付けられたという。わが家のものはその子孫、老妻が分けていただいて大事にだいじに見まもってきたものだ。この夏は大きくたくさん咲いてくれている。つぼみも多い。
いい香りがするんだよと妻は云うが、雨上がりだからだろう僕の鼻にはとどかなかった。残念。晴れた日にまた鼻の穴を近づけてみよう。香りは無理だけれど、風姿をお届けいたしましょう。
風蘭の先や蘇鉄の八九本 曾良
風蘭に雨月ありけり蚊帳に入る 水巴
(7/12)
(103)静かに、そっと……。
紫荊の木の根っこに二人静の花がちょこんと咲いている。季節がゆるやかにしっかりと動いているのだ。木の葉草の葉がやわらかに緑の諧調を見せながら、ゆく春を受け止めているのだろう。雨があがった朝、紫荊のはなびらを浴びて二人静はそっとほのかに粧っているかのようだ。春を見送るために。
身の丈を揃へて二人静かな 倉田紘文
一人静の花よりもこの花のほうが活けやすいと云って、老妻が青い小瓶に挿した。わが家もいささか静かになったようだ。(04/25)
(102)北北西に進路を……
海苔巻き大会の様相を呈していたうちの台所には、ご婦人方が四人。そして具のおこぼれをいただこうと鼻をピクピクさせた老犬がいた、これも女子だ。ご婦人というものは季節季節の味わいに積極果敢だなあと感心させられる。
わが家では恵方巻を毎年二升近くも作ってならべる。一、二本ずつを近くのお知り合いにおすそ分けしたのがはじまりで、美味しかったわ。ありがとう。と、よろこばれたことから老妻の挑戦がはじまったのだ。それがことの起こり。やがて娘が参戦し、今年は妻の姉、娘の友人が加わって四人となった。
前日の具の仕込みはわが家の主婦がにない、他の三人が巻きすを使う。恵方を巻くのだ。寿司米の量の加減がむずかしいようだ。米と具のバランスが肝心だ。見た目、それから味に影響をおよぼすのだから。太く巻かれたのや、細いのや均一でないところが「家庭的」といえるのだろうがずい分たくさん、黒くならばせている。
細く太く色とりどりの春巻けり たける
例によって親爺はゆく方をくらますにしかず、とマスクを着けて電車にのった。海苔巻きの具の残りをつまみながら、春立てば届くだろう「立春朝搾り・純米吟醸薄にごり生原酒」をいただくのがありがたい。
今年の恵方は北北西だそうだ。ほろ酔いの脚で、北北西に進路を取ってみるか。 2/5
(101)味噌を仕込む
大寒に入ってわが庵では、年の暮れの餅の連中によって味噌が仕込まれた。寒には空気中の雑菌がまことに少なくなるのだそうで、理にかなっているのだろう。
ご近所持ちまわりの大きな盥に、焚き上げてまだ少々温度を感じるほどの大豆をぶちまける。それを体重と体力のふんだんな娘が足でつぶす。足と云ってもゴム長を履いてはいるが、つくる現場はあまり他人にみてもらいたくはなさそうだ。やがてその中にまぜあわせた麹と塩をかぶせて、撹拌と加圧をくりかえす。撹拌は老妻、加圧は娘の持ち分だ。
大寒と敵のごとく対ひたり 富安風生
庵のあるじといえば麹と塩を混ぜつぶす作業を手伝っただけだ。寒仕込みの酒を熱くして、味噌をなめなめ猪口を重ねるだけの男はあまりたよりにならない。犬の毛が混じらぬように犬をつれて二、三時間の散歩をするだけだ。散歩から戻ると娘は汗だくになっていた。汗も少々まじっているかもしれない、うまい味噌に育つだろう。 2022/1/24
(100)餅も搗きあがり……
餅も搗きあがり、とはいえ餅つき器の身をふるわせての奮闘のおかげなのだが、年用意もあらかたすんでゆくようだ。
妻と娘と老いた雌犬みなそろって餅取り粉の白さをまとい、さてやわらかいところを頂きますかと、火鉢であぶる。やがてよろしい焦げ目が金網の四角いもようを残して、焼きあがる。
一山の尼が総出で餅を搗く 長沢不草庵
の感ある我が家の年の暮、ことしも恙なくくらし終えたことをご先祖さまにも感謝もうしあげ、甘辛くした醤油とけち臭く巻いた海苔で頂きました。ありがとうございます。来年もよき一年でありますように。
皆様今年もありがとうございました。来年もいい年でありますことを。
(99)茗荷の花が……
梅雨の晴れ間の朝に、妻が庭から茗荷を摘んできた。この時期は、雨が上がれば茗荷の子が土から出てくることがあると、隅っこをさがしてみたらしい。四つばかりだけれど生れていたのだそうだ。大きめの一つには花が咲いている。淡い黄の蝋細工の蘭のような花だ。なかなかよろしい姿形、梅雨の日のはざまにともる希望の灯とでも云おうか、嬉しくなる。
今晩は茗荷をきざんで酢のものにしようかななどと、花を食卓に置いてながめながら妻がつぶやく。よろしいな、酒がうまいだろうななどと考えながら私は聞いていて、頬がゆるんだ。
日は宙にしづかなものに茗荷の子 大野林火
茗荷の子は、夏の季題。してみれば梅雨はもうすぐ明けるのだろう。
妻が手に摘みて淡しや花茗荷 鈴木 元
茗荷の花は、秋の季題だそうだ。うちの狭庭の隅っこにはひと足先に、もう秋が潜んでいるのかもしれない。
胡瓜の酢の物に茗荷が刻まれ、茗荷の花も刻まれていた。どうしても酒の量がふえるわけだ。
〆
(96) 熱燗をやりながら
さまざまな遣る瀬ない思いの影をひきながら、今年も暮れようとしています。いちばん残念なことは、句座が少なかったことでしょうか。連座する句友あるいは句敵とのやりとりが出来なかったことが、悔やまれます。同好の士との言葉の掛け合いが、どんなに大きな歓びとなっているのか計り知れない、ということを知らされました。
ひたすら元のような日々に戻ることを祈るばかりです。
熱燗をやりながらこの一年を思い返しました。来年はきっと佳い年に戻るように、皆様にとって素敵な一年でありますように!
熱燗をゆるす夜のあり風が吹く たける こんな句を詠んでは、もう一本つけます。
熱燗や雪はますます積るのみ 高浜虚子
熱燗にことばの箍のゆるび来し 山田弘子 〆
(94) 虫めづる姫君
なにに書いてあったかは忘れてしまったが、開高健がこんなことを云っていた。
❖中国でのこと、香港でだっただろうか、ゲンゴロウが食卓に出されたときに悔しい思いがしたのだそうだ。食料がなく何でも食べた終戦直後だったにもかかわらず、ゲンゴロウにまでは思いが至らなかった。取り返しのつかないことをしてきた、と。空を飛ぶものなら飛行機以外なんでも、四つ足のものならテーブル以外なんでも食べると云われている中国の民の食う事へのチャレンジ精神にはかなわない、と痛感したのだそうだ。多分、そうとううまかったに違いない。
❖さきの日曜日、長女が奈良まで行った。虫を食べる会という催しがあったのだそうだ。いろいろの鳴き声を耳にするだけでは飽き足らず、様々な味をまで五感で体得しようとしたらしい。やるもんだ。イナゴとかコオロギの佃煮くらいなら見聞きもしたけれど、ツクツクホウシとか竹虫などとかはなかなか手強いんじゃないの? などと思いながら娘の送ってくる写真を見ていた。けれど蝉を食べるとか幼虫を食べるとか、そんなことは在所在所の文化の違いなんだろう。驚くに値しない。食料自給率の低すぎる日本国としては、一考にあたいすることなのかも知れない。ボクとしては、挑戦権を放棄するけれど……。
しんしんと星座歩める虫浄土 弘子
走り根に愚陀仏庵の虫名残
〆
(75) 梅雨に入る
❖ふとしたはずみで井上ひさしのエッセイ集に手がのびて、一気に読んだ。34年も前に書架に立てかけておいた本だ。「書物とその周辺を語る珍談奇談。週刊文春好評連載の読書エッセイ33篇……、真実一路のヨタ話!」と帯に書いてある『本の枕草紙』だ。草子ではなくて草紙(昭和57年11月1日 株式会社文藝春秋発行)。その違いにどういう意味があるのかはわからない。
そのうちの「アンソロジーは中継駅」を読んでいて、思い違いを発見した。かつていつかそぞろ歩きに『雨の静かに降る日は、藤沢周平の職人人情もの、市井人情ものが一番ぴったりだ』というようなことを井上ひさしが書いていた、と書いたことがある。けれどこれは植草甚一の言葉だった。ここに引用されていたものをぼんやりと記憶し、ひさしさんの言葉だと思い込んでいたようだ。申し訳ない。
つづけてここに井上ひさしは藤沢周平の『橋ものがたり』のことを、梅雨どきの土曜の午後のひとときを過すのにはもってこいです。と云っている。そのこととが一緒になって記憶してしまったようなのだ。でもまあ、雑学の大人と大戯作者の二人が云うことなんだから、間違いはないだろう。
❖やっとと云うかついに不快指数が極限にまで高くなる梅雨だ。しばらくは周平さんの短編集を積み上げて、雨の土曜日を静かに過ごそう。ボクは、毎日が土曜日だ。
じだらくにわれとわが梅雨浸りけり 石塚友二 (光塵)
〆